はじめに
福祉の勉強をしていた頃、精神疾患を持つ方から聞いた忘れられない言葉がある。
「昔のように本が楽しめない」
これを聞いたときは「認知機能の低下で読めなくなったのだろう」と思っていた。 最近アクセシビリティについて学ぶようになって、ディスレクシアを持つ人に会って考えが変わった。 読むことの難しさは、内容を理解できるかどうかだけの問題ではなかった。
今回は「エンタメとアクセシビリティの前提の違い」からエンタメの「価値」を考えてみることにした。
「何を伝えるか」と「どう伝わるか」
Webアクセシビリティは「何を伝えるか」を軸に考える。フォームを送信できるか、記事の内容がわかるか。アクセシビリティの名の通り、情報への「アクセスのしやすさ」を保証することが目的なので、タスクを達成できるか、情報が等しく届くかで評価できる。
たとえば画像の代替テキストは、画像が伝えている情報を言葉で伝えられれば役目を果たす。形式が変わっても、目的は達成される。
対してエンタメには、達成すべきタスクがない。エンタメは「どう伝わるか」を軸に置いている。
ホラー映画の驚きは「怪物が出た」という情報ではなく、タイミングや音の大きさと、それを受け取る自分の緊張が重なったところに生まれる。 「どう伝わるか」は作品の中だけで決まるものではなく、受け手や形式によって変わるものだと思う。
変換すると「時間の主導権」が動く
文字から音声、音声から文字に変換すると、変わるのは情報の形だけではない。「体験」そのものが変わる。
文字から音声
文字から音声に変える例としては、オーディオブックや読み上げ機能が想像しやすいと思う。
こちらは楽しむ「時間の主導権」を音声側に委ねることになる。 簡単に言うと、じっくり考えたり自分なりに解釈したりする「間」を、自分では決められない。
「止めれば良い」とか「スピードを変えれば良い」などと思うかもしれないが、それは「間を取る」のとは少し違う。 音声を止めるのは、流れを一度断ち切る操作だ。しかも「ここで考えたい」と気づいたときには、たいてい言葉はもう先に進んでいる。巻き戻して、止めて、また再生する。そのたびに体験は途切れてしまう。
文字を読むときはそうならない。気になった一文で目が止まり、少し前に戻り、また読み進める。これをほとんど無意識にやっている。立ち止まることが体験の一部として自然に組み込まれていると思う。
その代わり、音声には音声にしかない良さがある。語り手の声色や抑揚、そして語り手自身が置いた「間」。時間を委ねるからこそ、語り手のリズムに身を任せて受け取ることができる。
音声から文字
逆に、音声を文字に変えるとどうなるか。講演の書き起こしやポッドキャストの文字起こし、動画の字幕などがわかりやすい例だと思う。
こちらは「時間の主導権」が受け手に戻ってくる。読み飛ばすことも、気になる箇所を何度も読み返すこともできる。自分のペースで、自分なりの間を取りながら内容を咀嚼できる。
一方で、受け取るものも変わる。話し手が言葉に詰まった一瞬や、笑いながら言った一言の温度感、沈黙の長さ。文字にすると、それらは同じ調子の文字列になる。その代わり、読み手は行間から自分なりに温度を想像することになる。
また、テンポを自分で維持し続ける負担も生じる。どこまで読んだかを把握し、注意がそれたら自分で戻り、前の内容を覚えておく。読むことは、思っている以上に自分で自分を運び続ける作業だ。
どちらが良いという話ではない
つまり、変換によって変わるのは情報の量だけではなく、「誰が時間を握っているか」なのだと思う。
主導権を握れることは自由であり、同時に負担でもある。委ねることは不自由であり、同時に楽でもある。
ディスレクシアの人は文字の読み取りでつまずくことがある。精神疾患では認知機能の障害がみられることがあり、読みを自分で維持し続けることが負担になりうる。 同じ「本が楽しめない」でも、つまずく場所は人によって違う。 だから、どの形が楽しさにつながるかも一律には決められない。
醍醐味とバリアは同じものの裏表
時間の主導権が自由でもあり負担でもあったように、同じことはエンタメのほかの要素にも言える。
アクセシビリティは基本的に、負荷を下げる方向に働く。見えにくいものを見やすく、聞き取りにくいものを聞き取りやすく、わかりにくいものをわかりやすく。
ところがエンタメは、ときに負荷そのものを差し出してくる。ホラー映画で突然鳴る大きな音、ライブ演出の激しい光、高難度ゲームの理不尽なまでの難しさ、情報がぎっしり詰め込まれたアニメのオープニング。どれも「わかりやすさ」とは反対の方向にあるけれど、その過剰さを楽しみにしている人がいる。
そして同じ過剰さが、別の人にとってはバリアになる。驚きに弱い人、音や光に敏感な人にとっては、楽しむ以前に安心して見られない。光の点滅は、人によっては安全に関わる問題でもある。
音量を抑えたり、動きを減らしたりすれば、作り手が意図した体験とは違うものになる。けれど、それは劣った体験というより、別の体験だと思う。そもそも作り手の意図どおりに受け取っている人がどれだけいるのかも、実はよくわからない。
高難度ゲームにやさしいモードを入れるべきかという議論が何度も繰り返されるのは、どこまでがバリアで、どこからが醍醐味なのか、その線が人によって違うからだと思う。
さらにややこしいのは、配慮同士がぶつかることがある点だ。聞こえにくい人のために字幕や音の表示を増やすと、画面の情報量が増えて、注意を保つのが難しい人にはつらくなる。見えにくい人のための音声ガイドは、音に敏感な人には過剰になるかもしれない。
Webのフォームなら、両方のニーズを満たす実装が見つかることが多い。けれどエンタメは、画面・音・時間という限られた枠を奪い合っている。一つの形で全員にとって心地よくすることは、どうしてもできない場面が出てくる。
だから、一人ひとりが自分に合った形を選べるようにする、という方向に進むことになる。
「等価な楽しさ」は測れるか
もう一つ、変換そのものについて考えておきたい。
字幕や音声ガイドは、中立な変換のように見えて、実は解釈を含んでいる。作り手があえて曖昧にした表情を「悲しそうに微笑む」と言葉にした瞬間、その場面の意味は一つの方向に寄っていく。冗談は、説明した時点で冗談ではなくなる。
これを「正確に変換できていない」と見ることもできる。けれど、映像を見ている人も、それぞれ自分なりにその表情を解釈している。解釈が入ること自体は、変換に特有の問題ではない。音声ガイドの言葉選びは、それ自体が一つの読みであり、表現でもあると思う。
では、変換がうまくいったかどうかは、どう判断すればいいのか。
Webアクセシビリティには、WCAG のように確かめられる基準がある。文字と背景のコントラスト比が 4.5:1 以上あるか、画像に代替テキストがあるか。こうした基準は、満たしているかどうかを誰でも確認できる。
しかし「元の作品と同じくらい楽しいか」を測る基準は作れない。そもそも「元の作品の楽しさ」が、受け手によって違うからだ。
そう考えると、問いの立て方そのものを疑ったほうがいいのかもしれない。楽しさを等価にすることは、目指すべきものなのだろうか。
では、楽しさは翻訳できるか
ここまで、変換すると時間の握り方が変わる、配慮同士がぶつかる、等価な楽しさは測れない、と書いてきた。けれど、これらを「課題」と感じるのは、どこかで「元の体験と同じものを届けるべきだ」という前提に立っているからだと思う。
そもそも、元の体験とは誰の体験なのだろうか。
同じ本を読んでも、同じ映画を観ても、何を感じるかは人によって違う。これまでに何を読んできたか、そのときどんな気持ちだったか、何に心が動きやすいか。同じ人でも、十代で読んだ本を大人になって読み返すと、まったく違う物語に感じることがある。
エンタメの「どう伝わるか」は、作品と受け手の文脈や感受性が出会ったところで、はじめて生まれる。だとすれば、全員に同じ体験を届けるという目標は、最初から成り立たない。
そう考えると、変換によって体験が変わることは、欠けることとは限らない。
ラジオドラマには映像がない。けれど聞き手は、声と音だけを手がかりに、自分の頭の中に場面を描く。映像がないからこそ生まれる楽しさがある。
文字から音声、音声から文字の話も同じだ。オーディオブックでは、語り手の間に身を委ねる楽しさがある。書き起こしでは、話し言葉を自分のペースで咀嚼し直し、行間の温度を想像する楽しさがある。音声ガイドの言葉から、自分なりの場面を思い描く楽しさもある。どれも元の形の劣化版ではなく、別の楽しみ方だと思う。
情報が限られることで感じ方が変わる。それ自体が、一つの楽しみ方になりうる。
そして、違う形で受け取ったことは、人と人を分けるだけではない。
映画を観たあとに「あの場面、どう思った?」と話す時間がある。読書会で、同じ本なのにまったく違う読み方をしている人に出会うと驚く。楽しさは、作品を受け取った瞬間だけで終わるものではなく、その後に誰かと話すことで広がっていく。
音声ガイドで観た人と、映像で観た人と、字幕で観た人とでは、同じ場面でも心に残ったものが違うかもしれない。それは体験がずれてしまったというより、話すことが増えたということだと思う。違う入口から入った人同士だからこそ、交わせる会話がある。
だから、「楽しさは翻訳できるか」という問いへの私の答えは、少しずれたものになる。楽しさを同じ形のまま移すことはできないし、移す必要もない。形が変われば、そこで生まれる楽しさも変わる。それでいい。
選べることと、それしかないこと
ただ、一つ区別しておきたいことがある。制限された形を「楽しみ方の一つ」として選べることと、その形しか残されていないことは違う。
ラジオドラマを選んで聴く人と、映像を観られないからラジオドラマしかない人とでは、同じ「映像のない体験」でも意味が変わってくる。制限が楽しみ方になるのは、それを自分で選べるときだと思う。
だとすれば、アクセシビリティがエンタメに対してできることは、同じ体験を保証することではない。一人ひとりが自分に合った形で作品と出会えるように、入口と選択肢を増やすことなのだと思う。
文字で読むか、声で聴くか。自分のテンポで進むか、語り手のテンポに委ねるか。そのどれもが正解になりうる。どの形で楽しむかを、受け手が選べること。そこに「価値」があるのではないだろうか。
おわりに
「昔のように本が楽しめない」
この言葉を聞いたとき、私は「読めなくなった」という話として受け取っていた。
今振り返ると、失われていたのは、内容を理解する力だけではなかったのかもしれない。自分のペースで物語に浸ることや、ページをめくる時間そのものだった可能性もある。本当のところは本人にしかわからないし、ここで答えを出すつもりはない。
「昔のように」という言葉には、以前の楽しみ方を知っているからこその寂しさがあったと思う。その寂しさは、軽く扱っていいものではない。
そのうえで、今の私はこうも思う。昔と同じ形に戻ることだけが、楽しさへの道ではないのかもしれない。本を読むのではなく聴く、誰かに読んでもらう、少しずつ区切って読む。どの形でも、その人なりの楽しみ方が生まれる余地はある。大切なのは、その道がちゃんと用意されていて、本人が選べることだ。